その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

本間クン!の『60年代新宿 アナザ―・ストーリー』

 ‘蒼海行きの電車に乗って細井さんに会いに行く’という夢を見たので、久々に細井さんにメールを差し上げた。
(細井秀雄氏は元文藝春秋編集者。『本が崩れる』の企画者)
返信メールの文末に、「本間健彦さんの『60年代新宿 アナザー・ストーリー』を読んだら、草森さんが重要人物として登場していました」とあったので、さっそく注文。
日曜日一日中読みふけった。

タウン誌の先がけとなった『新宿プレイマップ』(1969.7月号〜1972.6月号)の創刊前夜から廃刊後に至るまで、当時の掲載原稿を織り込みながら、あの時代が語られていく。
60年と70年には安保闘争があり、学生たちは激しく生き方を問われたものだった。社会も文化も原点回帰を目指そうとした時代の転換期に、本間さんは(草森さんはよく本間クン!と言われていた)新宿商店街のPR誌編集長として、矛盾を抱えながらものすごい密度で生き、今その総括をされている。

読み進みながら自分のこともいろいろ思い出した。渋谷の西武劇場(現パルコ劇場)に入ったのは70年代半ばになっていたけれど、アングラ演劇をやっていた友人から「恥を知れ」と言われたものだ。企業の文化戦略で作られた劇場の先兵になるなんて、という非難だった。それに忘れもしないあの事件――担当していた「劇場」誌の依頼原稿中の文言にパルコ批判があるから削除して欲しいと上司から言われ、筆者からは削除ではなく伏せ字でと言われて苦悩したことなど。(いや苦悩したのか?苦悩するにはまだ幼すぎたし、私は単純に筆者の側に立って悩んでいた)

時代のど真ん中にいた人間にしか書けない数々の事実……
本間さんは新宿という街や風俗はもとより、筆者への依頼理由から筆者自身の紹介、発行元とのいざこざに至るまで、『新宿プレイマップ』が存在した背景を、ていねいにていねいに書かれている。挿入されている当時の誌面からも、作家やデザイナーやイラストレーターや写真家など、その後一世を風靡することになる登場人物たちの血気盛んな姿がくっきりと浮かび上がり、とても存在感がある。だから胸が痛くなる。誌面を飾った人、編集部員のなかにも、亡くなった人やいまは行方の知れない人もあるのだ。

草森紳一については、外部の同志として紹介されている。連載は2本で、「スクリーン番外地」(創刊号〜1970年3月号迄 8回)と「女性歌手周遊雑記」(1971年12回)。美空ひばり論はぜひ読んで欲しい。

『60年代新宿 アナザ―・ストーリー』(社会評論社)。時代の気分にあふれた旗手たちの貴重な証言。あの時代を知らない若い人たちにも、ぜひ60年代を追体験して欲しい。

本間健彦氏は内外タイムスの記者から『話の特集』の編集者となり、矢崎泰久氏との縁で『新宿プレイマップ』の編集長になられた。現在は「街から舎」主宰で『街から』の編集発行人)

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人