前回ご紹介した神谷忠孝氏の北海道新聞のコラムで、山口昌男氏が美幌町の出身であったことを知った。そうだったのか。
札幌大学の学長になられたとき、草森さんに来ませんかという電話があったことを聞いた。
もちろん草森さんは、お断りしたのだけれど。
私が思い出すのは、アフリカから帰られて間がない頃ではなかったか。
当時西ヶ原にあった東京外国語大学の研究室に原稿をいただきに上がった。
広々した室内に本が山積され、今これをやってるんですよと遠くからポ〜ンと紙の束を投げられた。
英語の論文で、私は読めなかった。
さりげなく編集者のレベルを測られたのだと思う。
無教養の私だったが、当時編集していた『劇場』(西武劇場・現パルコ劇場発行)のレギュラーと言える筆者になって下さった。
私が独立して初めて企画した本がバリ島をテーマにしたもので、NYから帰国したばかりの大竹昭子さんにライターをお願いした。
彼女はNY暮らしの頃、当時NYにいらした山口先生にかわいがられていたと言うので、解説を山口先生にお願いしたことを今、思いだした。
(新潮文庫『バリ島不思議の王国を行く』)
年を取ると、思いだすことばかりで困ってしまう。
でも昔、ちょっとからっぽになりかけた私は、生きることは思い出を作ることと考え直し、生き直し始めたのだった。だから、よし、です。