その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

草森紳一書き出し劇場8 『悪のりドンファン』 (石岡瑛子氏の訃報に)

 石岡瑛子さんが亡くなった。70〜80年代、資生堂やパルコの広告のアートディレクターとして一世を風靡した人だ。1980年の初めに拠点をニューヨークに移し、コッポラの映画『ドラキュラ』の衣装でアカデミー賞を受賞。北京オリンピックの衣装も担当するなど国際的に活躍中で、『スパイダーマン』の舞台衣装も評判だ。
 突然の訃報をネットで知ったけれど、まだ信じられない。作品集『EIKO by EIKO』を作り、彼女からとても信頼されていた私の元同僚(松坂静雄氏)も知らなかったという。
 1月21日、膵臓癌で死去。「ニューヨークタイムズ」の死亡記事は早かったらしく、それを見たNY在住の知人から、みんなに情報が伝わった。

 70年代パルコにいた私にとって、仕事上は身近な存在とは言え、石岡瑛子三宅一生田中一光の各氏らは、遠く仰ぎ見る巨星だった。
作品世界はもちろん、とくに魅き付けられたのは、日本の文化を世界に発信しようとする使命感だった。その原点は、敗戦だったのか、何だったのか……
 石岡さんは70年代から創造的な挑戦を繰り返し、現在もなお挑戦の姿勢は変わることがなかった。草森紳一さんと同じ1938年生まれ。NYと電話でお話しした時のあの言葉、スパイラルでの力のこもった握手……。老いてもなおレ二・リーフェンシュタールのようにダイナミックな生涯を送られると思っていた。本当に寂しい。(というか、いまだ信じられない)

  (1月13日にギンザ・グラフィック・ギャラリー開催の「田中一光のポスター展」で、当時のデザインのパワーを思い出していたところだ。
 石岡さんの一番弟子の成瀬始子さん、田中先生の一番弟子の太田徹也さん、先生方に代わって、お元気で長生きしてください! 一生さんは、もちろんですよ!)

 今日の草森紳一書き出し劇場は、石岡瑛子装丁の『悪のりドンファン』(1976年 フィルムアート社)を選びました。
 巻末の文章「千年ふたたび朝あらず――日々の終末について」(1973年季刊『サブ』初出)はとても好きなものだ。

 (本書の目次などは、草森紳一HP「白玉楼中の人」で見ることができます。見開きの画像はクリックすると大きくなります。) 

 PS お問合わせに。草森さんに石岡瑛子論はないのではないかと思います。パルコ論(「幻想の食事 ジャン・ジャック・ルソーとパルコ文化」・『見立て狂い』所収)はあるのですが。

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人