その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

勘三郎さんが亡くなった

勘三郎さんというより、私たち70年世代には歌舞伎界の新星、愛嬌と才気にあふれた勘九郎ちゃんと言ったほうがなつかしい。
歌舞伎が大好きだった草森さんは、舌をまくほどといった感じで「勘九郎はとにかく踊りがうまい」とよく言っていた。

勘九郎さんと草森さんは80年代にお付き合いがあった。詳しくは演劇評論家中村哲郎さんが回想集『草森紳一が、いた。』で語って下さっている。
まだ23、4歳の勘九郎さんが、‘愉快’に語りあう「ゆ会」という会を主催して、中村さんが幹事だった。
メンバーは、推理作家の小泉喜美子、国文学者の松田修やサイデンステッカー、茶道研究の熊倉功夫、詩人の高橋睦郎草森紳一などで、
ときに父親の勘三郎氏や、吉右衛門なども参加する刺激にあふれた楽しい会だったという。

ジャンルを超える「ゆ会」の活動の延長線上に、
さらに多くの人たちを巻き込んだ、こんぴら歌舞伎、コクーン歌舞伎、NYや日本各地での平成中村座の活動があったのではないだろうか。
あの、わっと人を包み込み、その場を祭りの空間にする天性の明るさと、目をくぎ付けにする踊りと演技の引力。
傾き者として走り続け、燃焼しきる果てはまだまだ先のことだったのに……とても信じらない。

ご冥福をお祈りします。
そのうち…あちらで「ゆ会」をおやりになることでしょう。

80年代初め、「ゆ会」のころ。
勘九郎さん、草森さん、中村さん、リ―ビ英雄氏。

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人