去年の秋、岡先生が亡くなられたらしいというニュースが飛び込んできた。
はっきりしないということだったので、何人かの方にお尋ねした。
「そういえば、最近お電話をいただいていません」というご返事があるぐらいで、それ以上のことはわからなかった。
岡晴夫先生は、慶応の中国文学科で草森紳一の一年下。
奥野信太郎先生と村松暎先生を恩師と仰ぐ先輩後輩の関係だった。(当時のことは、回想集『草森紳一が、いた。』に岡先生が詳しく書かれている)
草森さんの急逝後、岡先生は遺族や蔵書整理の仲間と親しく交流され、有楽町の「炉端」で集ったり、隅田川での散骨式にも参列され、蔵書が帯広大谷短大に寄贈されたときには、皆と一緒に大学を訪問されるなど、いつも草森さんと私たちに寄り添い、温かい心配りをして下さっていた。
お電話をいただくとよく「奥野先生は、草森さんをどうなさるおつもりだったんだろう・・・草森さんは大学にとどまる人ではないと思うんだが・・・」と言われていた。
「『日本笑い学会』というのもやってるんですよ。笑いは大事ですからねえ」と言われた明るいお声も思い出す。
暮れになって、ご遺族から喪中はがきが届く。奥様が7月3日に77歳で、岡先生は9月8日に83歳で永眠いたしました、とあった。
とても信じられず親子でショックを受けていたところ、平井徹氏(慶大講師)からも「岡先生がご逝去され寂しくなりました」というお葉書をいただいた。
平井氏によれば、岡先生からの最後のお電話は昨年5月末の御入院直前で、「療養については状況を詳細かつ冷静に話され、知識欲も旺盛で、御本人も十分恢復するつもりでおられた」ということだ。
「岡先生と私とのつながりが深まったのは、ひとえに村松先生への敬意を共有することができたからです。(中略)岡先生の御逝去で、奥野信太郎先生の薫陶を受けた方は、慶応にはもうおられなくなりました。
一時代が終わった感があります。喪失感は未だに大きいのですが、これから、我々の世代が益々頑張らなければなりません」と。深い深い悲しみがひたひたと伝わってきた。
そして山下輝彦先生による追悼文が『三田評論』に掲載されたこともお教えくださった。
『三田評論』の許可をいただき、追悼文をブログに掲載させていただきます。
山下先生からは、「「岡晴夫」と言う学者の在った事をひとりでも多くの方に知って頂ければ、先生へのささやかな供養になるかもしれません」というお言葉をいただきました。
ご許可をくださいました山下輝彦先生に感謝申し上げます。
またお教えくださった平井徹様、ありがとうございました。
岡先生が、いまここにいらっしゃるかのようなすばらしい追悼文です。笑顔にも胸を突かれます。

『三田評論』2022年12月号掲載
岡先生は長く奥様の介護にもあたられていた。ご心痛を察しながらも、この数年のあ
わただしさに追われ、なんのお役にも立てなかったことが悔やまれます。
岡先生、ありがとうございました。
岡先生と奥様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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(長い追伸)
岡先生のご逝去をきっかけに、思いが40年以上も昔に飛んでいく。
当時私は、渋谷パルコの9階にあった西武劇場(現PARCO劇場)で『劇場』誌を担当していた。1977年2月の公演はバルトークの「中国の不思議な役人」。寺山修司の台本・演出で、パルコ初のプロデュース公演だった。
『劇場』の編集者は私一人で、編集は任されていたのだけれど、なぜか初めて専務室に呼ばれ、指示を受けた。「中国の不思議な役人」の執筆者については、慶応大学の村松暎先生にご相談するようにと。
三田の慶応大学に出向いて、初めて村松先生にお会いしたとき、「中国でこんなものが発見されましてね」と大陸から届いたばかりの粗雑な印刷の冊子を見せてくださった。兵馬俑の写真だった。不思議な先生で、「私は名前のコレクションをしていますが、あなたの名前を加えてもよろしいでしょうか」とも聞かれたことを憶えている。
薄暗い研究室の中でのことで、遠い記憶がほんとうにあったことなのかどうか、、、、
それから執筆者には、「草森君、岡君もどうでしょうか」と言われたのだった。
岡先生の研究室は村松先生とは違って、大きなガラス窓のそばにデスクがあってとても
明るかった印象が残っている。お坊ちゃんそのままのような若く品のある先生だった。
「草森さんには、早めの締め切りにした方が良いですよ」というアドバイスは岡先生からだったか、村松先生からだったか・・・
草森さんには、芝公園の、広いラウンジのような喫茶室でお会いした。テーマを書いたメモをお見せしたら「上海について書きたいな」と言われたが、執筆者はすでに決まっていた。(今、手元の『劇場』16号を見たら、上海の原稿はない。私の記憶違いなのか・・・)
(――今もあの時、増田通二専務がなぜ村松先生に会うようにと言われたのか、不思議で仕方がない。東大哲学科卒の増田専務と、慶応大学中国文学科との接点が見つからない。また「中国の不思議な役人」役は伊丹十三氏だったけれど、伊丹氏が人気エッセイストとなった『ヨーロッパ退屈日記』は、婦人画報社時代の草森さんが担当者だった。本当に不思議な巡り合わせだったと思う。――)
2008年3月に草森さんが亡くなり、お別れの会に岡先生がいらしていたと聞いて、お電話を差し上げたら憶えて下さっていて、とても光栄だった。
村松先生はなんと草森さんより一か月前の、2008年2月に亡くなられている。
岡先生はお寂しかったのかもしれない。草森紳一の娘や息子さん、私の仕事仲間までご紹介して、楽しい時間を過ごしたことが思い出される。ご無沙汰していてお電話を差し上げるといつも「お嬢様方もお元気ですか?」と聞いて下さった。
彼女たちには、ご逝去をまだ伝えていない。やはりショックが大きいと思うから・・・
『劇場16』に掲載の、岡先生と村松先生のページをご紹介したい。46年前の村松先生の文章は、現在の中国を考えるにもとても示唆に富んだものだ。

(公演は1977年2月23日―3月6日。のちに再演。表紙イラストは合田佐和子さんで舞台美術も担当。中国の不思議な役人は伊丹十三、娼婦は山口小夜子が演じた)







(草森さんの原稿については、スキャンの調子が良くないので諦めました。スミマセン! 『印象』(冬樹社1978年刊)に掲載されていますので、恐縮ですが古本屋でお求めいただければ幸いです)