その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

さびしい、さびしい、さびしい、パルコの元宣伝局長 石川氏の訃報に。

石川福夫氏の訃報が、昨日メールで入った。6月16日永眠。戒名、お墓は一切不要との遺言で、葬儀も親族ですまされたと言う。
今年は、1月に70年代パルコのポスターやCMのクリエイティブディレクターだった石岡瑛子氏の訃報があり、3月にはSPで活躍し、人望厚かった越川茂さんも逝った。
パルコの創成期と黄金期を担った人たちがすごいスピードで亡くなっていく。

石川局長は70〜80年代、増田通二専務の発想を広告宣伝物に具現化していく女房役だった。苦労人でいらしたと思う。専務室に入る前にはリハーサルをやらされたものだ。
私は、パルコというより西武劇場に入社した気持だったが、パルコ出版に移動になって、デスクが劇場からレスター会館の本部に移ったとき、さまざまな部署の社員と知り合って、この会社は変人の集合体であるとつくづく思った。
くしくも昨日の新聞に、「Jフロント(大丸・松坂屋)がパルコを子会社化。提携効果の出ていないイオンやクレディセゾン対応が焦点に〜〜〜」という記事が載っていた。
あの破天荒ともいえる、パルコをパルコたらしめていた変人たちはもはやいないし、時代も変わった。3.11後のパルコはどんな道をたどるのか。

そういえば私の机の上に出たばかりの草森さんの『絶対の宣伝 ナチスプロパガンダ 文化の利用』(番町書房・1979年)があるのを見て、
「おい、おい、おい、おい、社長(堤清二氏)が読むような本、読まないでくれよなあ」と言われた石川局長の声を思い出す。

局長、お疲れさまでした。心よりご冥福をお祈り致します。               

(上の写真はトリミングが悪くて申し訳ないけれど、1973年渋谷パルコオープンのポスター AD:石岡瑛子、D:成瀬始子、写真:横須賀功光、コピー:長沢岳夫「女は明日に燃えるのです。6月14日ファッションハウス渋谷パルコ誕生」。
下は、1978年 AD.D:長谷川好男、写真:菅昌也、長沢岳夫のコピーは「男には、忘れられない女が一人はいる」。言葉にきちんとメッセージがあったなあと思います。)

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人