生原稿を編集者に渡すときは、「これでよいか」と心の中で問うてから渡すのよと言われたときのことは、その真剣さとともに忘れられない。批判にさらされても非難を受けても、傷つく人がもしやあったとしても、「これでよい」という一切の覚悟のうえで原稿を渡す。
責任は筆者の自分にある、という自負がしっかりあったと思う。
そして、ゲラが出る。どんどん補筆と削除が入る。編集者と印刷所にとってはたまらないが、おかまいなし。再校が出る。またまた赤字が入る。とことんのとことんまで赤字を入れる。草森紳一に言わせれば、そういうものなのよ、ということになる。
作家はだれしも皆同じと思うけれど、草森さんははるかに度を越していた。
で、いまパルコの増田通二専務(当時。80年頃)のことを思い出した。ポスターだったか…宣伝物はすべて、制作局が何度も増田氏とやり取りを重ねて詰めていく。最初の企画、コピー、モデル、カメラマンにアートディレクション、印刷の色校正などなど。担当者にとっては、神経をすり減らし、病気で倒れる者もいるほどの激務。あるとき、めでたく最終決裁にまで至ったその会議で、パルコの総帥増田氏が責了前のポスターを一瞥するなり「やり直し」と言われた。責任者が思わず「専務、昨日はこれで行こうと言われました」と詰め寄ると、一瞬間があっての返事は、「お前な、人は一日、一日成長するもんだ」。
私には耐えられない。制作局ではなかったが、直後に担当者から聞いた話だ。そんなお二人の仕事の仕方にもかかわらず、多くの人に慕われたのはなぜだったのだろう。
草森さんは、出版された本にも、ひょいとボールペンをとると赤字を入れていた。10年前の本であれ、届いたばかりの新刊であれ。これでよいということがなく、きりがなかった。それが生きてるということなのよ、という声が聞こえる。