その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

蜷川幸雄氏の訃報に

蜷川さんのこと

蜷川さんと初めてお会いしたのはいつだったのか。
考えてみると1976年の初めだから、ちょうど40年前ということになる。

私が西武劇場(現・渋谷パルコ劇場)に勤務し始めた頃で、担当していたプログラム『劇場』で「60年代の演劇」の特集を組んだ。
今とは違って、どの分野でも主義主張の異なる者同士が同じテーブルにつくということはほとんどなかったから、「到底できっこない」と言われた。
とくに西武劇場は、一部演劇人たちからは資本の文化戦略に過ぎないと目の敵にされていた。
企画があわや空中分解するか、と思われた時もあったのだが、なんとか70ページ余りの、どこの雑誌も採り上げていなかった60年代演劇特集が実現する。
この中の、「アヴァンギャルド演劇の旗手たち」8人の中の一人として、蜷川幸雄氏にインタビューをお願いしたのだった。

忘れもしない。依頼の電話をかけた時、3度目の呼び出し音で「ハイッ!」と、張りのある声が聞こえた。
その瞬間、背後から「ウワ〜ッ」という幼児のすさまじい泣き声。
あ、いまの、蜷川さんの現場はここなんだ、とさとった。

東宝の『ロミオとジュリエット』(1974)、つまり商業演劇の演出を引き受けたことから、仲間の反感を買い、孤立し、仕事もなかった頃だと思う。
当時のことは、「僕は主夫をやっていた」といろんな所で語られている。

この時のインタビューは、今でも目に浮かぶ。激動の政治の季節を背景に、新旧の演劇人たちの生きざまが(懐かしい言葉!)ドラマティックに語られ、
まるで舞台の一人芝居を見ているようで圧倒的な迫力だった。

2度目は、パルコを退社した1981年頃。 面識のなかった編集者(渡辺弘さん)が、蜷川さんの膨大な資料を持って現れ、本にできませんかと言った。
演出プランのメモや、見事なスケッチ、劇評のスクラップなどなど。即、やりたいと思い、光栄にも感じたけれど、赤ん坊の世話に明け暮れる日々で残念ながらお断りした。あの資料はまさに、自分の天才を知る人の執念の集積だった。(この資料は、『NOTE1969-1988』という題で1989年に河出書房新社から出版された)

蜷川さんの東宝の仕事は、次々に話題を呼んでいた。ただ一方で、平幹二郎が演じる「王女メディア」などゲテモノ扱い(これも最近聞かない言葉だ)する厳しい批評も多かった。しかしこれらの酷評をバネに、蜷川さんの天才が、猛烈な快進撃を始めたのだと思う。

2000年、Bunkamuraシアターコクーンの芸術監督に就任された時、私は晴美制作室としてプログラム制作の仕事を請け負っていた。
新芸術監督のもとで、どういう編集方針で進めるべきか。
Bunkamuraのラウンジで打ち合わせとなった時の第一声は、対決姿勢を真っ向から出した「俺さ、公演プログラムってのが大嫌いなんだよ」だった。一瞬虚をつかれたけれど、バッグからペーパーを取り出すと、なんとも言えないうれしい笑顔で「エッ、考えてきたの?」と言われた。

企画は、蜷川さんが、会いたい人に会いに行く、異ジャンルの第一人者たちとの鼎談。
以後、この鼎談シリーズを含めて過激に、良い仕事をさせていただいた(鼎談は、2002年『反逆とクリエイション』紀伊国屋書店としてまとまる)。
プログラムの中身はノータッチ、神経を使ったのは表紙だ。デザイナーと煮詰めたプランを何案かお持ちする。劇場の担当者は、いつもピリピリしていた。
悪態をつかれたことはあったが、怒られた経験はない。蜷川さんの敏感に対し、鈍感の私は話にならなかったのだろう。

初回打ち合わせで、『千のナイフ、千の目』(最初の著書、1993年紀伊国屋書店)が好きなんです、と言ったとたん頬を赤らめられたのでビックリしたことがある。
蜷川と言えば、怒声の飛ぶ厳しいけいことスペクタクルで絢爛豪華な舞台がいつも語られるが、ご本人はシャイな、気配りのある方だった。

ついでに思い出したけれど、TVでバリ島の旅をするので、『踊る島バリ』(私が編著者)のタイトルを使えないかと人伝てに聞かれたことがあった。
あの「劇の島」を蜷川さんが!と興奮してテレビを見たけれど、バリの市場の喧噪のなかに、極度に緊張して(と、私には見えた)たたずむ蜷川さんの姿が映し出されたのだった。
繊細過ぎてリアルは苦手、人工の美に感応する人だったのだろう。

担当したプログラムでは、「パンドラの鐘」「グリークス」「心情あふるる軽薄さ2001」等々、思い出深い。

蜷川さんが亡くなり、もう二度とあの舞台が見れないのが残念でならない。
この10年余りは、私的な事情で劇場から遠ざかっていた。
あれよあれよという間に世界の巨匠の位置に上り詰めて行かれたのだが、ニュースを見聞きするたび、私の脳裏には、あのときの「ハイッ」とすさまじい泣き声が必ず甦るのだ。

あちらはもっと自由で面白いだろう。まだまだ疾走中の蜷川さんに、お悔やみの言葉は言わない。(東海晴美)


蜷川幸雄氏が5月12日に亡くなられた。80歳。昨年5月22日に扇田昭彦氏が亡くなられたばかり。演劇界の巨人の相次ぐ訃報にショックを受けている。
草森さんと、蜷川さんについて話した記憶がない。草森さんは歌舞伎と映画好きだったから、現代劇についてはあまり語られなかったように思う。

久々のブログの内容が、蜷川さんで、すみません・・・

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人