その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

草森紳一の命日に、新橋〜永代橋〜門前仲町まで歩く。

 3月19日の命日は快晴。エイヤッと起き出して、娘と二人で永代橋にお参りに行くことにする。
JRで新橋まで。そこから銀座通りに出て、右手にヤマハ、左手に資生堂ビルを見ながらまっすぐ京橋へ。
赤レンガのしゃれた資生堂ビルが新築オープンしたのは2001年だった。10階のレストラン・ファロで親子で食事をしたことを懐かしく思い出す。上品すぎてちょっと落ち着かなかったけれど。

 銀座4丁目の交差点、服部時計店(現・和光)と銀座三越の通りを抜けて、ただただ京橋方向にまっすぐ。
海外ブランドの大型店がずいぶん増えたが、連休の中日でも人出は多すぎず少なすぎず、銀座はやはり大人な雰囲気だ。
京橋ではINAXの本屋をのぞいて小休止。建築の棚に『フランク・ロイド・ライトの呪術空間』(フィルムアート社・2009年)を発見。この書店は、90年代初めから(80年代から?)セレクトブックショップとしてとても新鮮だった。
流行通信」の副編集長で草森さんのファンだった平野さんが長く店長をされていたので、やはり懐かしい。

 隣りのドトールでコーヒーを買って、まっすぐ日本橋へ向かう。左側に丸善を見て、パルコ勤務時代に担当した本の写真展(『朝倉響子彫刻作品集』、写真は奈良原一高氏)をなぜか日本橋丸善で開いたときのことを思い出した。
黒のパネルで仕切られた会場の中、海底と氷原に立つ女性像の不思議な写真群が輝きを放っていて、来客が「アッ、ここだけパルコ!」と言ったのをよく覚えている。銀座からとは逆コースで永代橋からお散歩して立ち寄ったり、親子で待ち合わせたりしたこともあった。

 銀座方向から歩いて永代橋に向かうのは初めてのこと。日本橋高島屋を過ぎたところで、さてどっち?と立ち止まるが、ありがたい!、地図の看板が立っていた。昔の白木屋デパートを向かいに見て右側の永代通りに曲がり、茅場町方向に。
霊岸橋近くには、草森さん行きつけのカフェベローチェ、おでん屋さんがあった。そうそう2011年の夏、草森紳一写真展「本は崩れず」を開いてくださった森岡書店も、レトロなビルの一室にあった(現在は銀座に移転)。写真展の打ち上げ日、誰かが門仲まで歩こうと言い出し、暗くなった通りをみなで歩き始めた。「ぼく、散歩の会の会長だよ」という中村君についてゾロゾロ。でもネオンもなく人通りもなくぼうぼうと広がる夜の空の下で迷ってしまい、やっと永代橋にたどり着いてホッとしたことを思い出す。それから門仲の笑福に向かって、お開きになったのは午前2時ごろだったか。あれから6年。あの時の蔵書整理の仲間たちはみんな元気かしら……

 新橋から1時間半ほど歩いてきたので少し汗ばんでくるが、ほのかに潮の香りがする。
見えた! 永代橋のブルーの流線形が!!

隅田川の水面がキラキラ輝いて、2009年3月19日「散骨日和ね」とみなさんがおっしゃった、あの日と同じ陽気。それにしても草森さんは晴れ男だ。行方不明事件から発見された当日も、瑞江葬儀所での密葬の日も、一周忌の散骨の日も、七回忌の法要も、すばらしいお天気ばかりだった。

川べりでぼんやりと一休みしてから、草森さんが25年間住んだマンションの7階へ上がってみる。2008年6月、4万冊の本の引っ越しと部屋の片づけのとき、外階段に座って隅田川を見下ろし川風に吹かれながら休憩したものだ。現在では、高いマンションが視界を遮るように立ちはだかっている。「永代橋が見えなくなるから引っ越したい」と言ってた言葉を思い出す。

 管理人室は休日のため閉まっていた。当時の管理人さんは、草森さんを一人暮らしで骨董好きだった兄(あに)さんと重ねて慕っていらした。お元気だろうか。

 マンションに別れを告げて、門前仲町のカフェ東亜へ。店の雰囲気が30年来変わっていないのがなんともうれしい。
休日の3時前なので、ほぼ満席。だけどナント草森さんの特等席、三角席は空いていた!
「疲れただろう」と、私と娘のために取っておいてくれたに違いない。
食事とコーヒーでのんびりぼんやりして、昼前から4時間の散歩の旅を終えた。

今回訪ねることができなかった冨岡八幡と笑福は、次回のお楽しみ。

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人