その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

納骨か散骨か。3月のさわやかな日に――

草森さんのお墓をどうするか。
ご弟妹にご相談し、いろいろ考え、見て歩き、迷った末にある墓所にほぼ決めようというその時に、
またしてもちょっと不思議なことが起こって再熟慮することになったのでした。

そうして見つけたひとつが、随筆『散歩で三歩』(話の特集の392頁。
「ああ、墓はいやだいやだ〜〜」の箇所。
周恩来のように空から骨をまいて貰うか、劉少奇のように海にまきちらして欲しい。〜〜〜

探墓は好きなのに自分の墓は嫌いという草森さん自身の声にしたがって、
最終的に東京湾から海に散骨ということに決めました。

一周忌の2009年3月19日は、それまでのお天気と打って変わって初夏のような好天に恵まれました。
誰が言ったか、まさに“散骨日和”。

お骨は器械ですることもできるようですが、遺族の手ですり、お一人お一人用に水溶性の紙に包みました。
昔、バリ島の伝説的な音楽家マンダラ翁の聞き書き『踊る島バリ』(パルコ出版という本を作ったことがあります。
その時、翁の葬儀にも立ち会いましたが、火葬のあと、夜の深い闇の中で僧侶がお経を唱えながら骨をするのです。
その粉をヤシの実の容れものに入れて、夜の海に流します。
長男のバワさんが、骨をすりつぶすのは霊を淨めるため、いくつもの段階を経て神に近付いて行くのですと教えて下さいました。

船中でのご挨拶に、少しこの話をしました。

3年ぶりにこの時の写真を取り出して見ると、本当に美しい日で、
参加して下さった30名の方々がこの散骨クルージングを楽しみ、草森さんの思い出にひたっておられるのがよく分かります。
紙包みを手に海をじっと眺めていたFさんは、「実はぼく、草森さんを連れて帰ろうかと考えていたんです」と言われました。
高橋睦郎さんからは後日お電話をいただいて、「(散骨が)詩になったんです。僕が追悼の詩を二度書くなんてことはないんです」と言われました。
(死の2ヶ月後に、「読む人 または書刑 草森紳一に」が東京新聞に掲載されています)

大倉舜二さんには、いろんな思いがおありですが、「永代橋を草森の墓だと思うよ」と言われました。


崩れた本の山の中から 白玉楼中の人