4月もはや4日。ようやく遅い桜の季節になりました。
まだまだ地震が続いていたり、強烈な風雨に驚かされたりの日々ですが、皆さんのところは大丈夫だったでしょうか。
不謹慎ですが、地震が多発する3.11より前に草森さんは逝かれて幸いでした。
それに煙草も自由に吸えない世の中では、もう生きていたくないよとおっしゃることは確実ですし。
前回と前々回に、草森さんの亡くなった日と散骨について書きましたが、ではどういう経緯で発見されたのか。
「俺を見つけるのは編集者よ」、「それほど締め切りは恐ろしいものだってことよ」と生前よく言われていました。
『en-taxi』の連載「ベーコンの永代橋」の最終の締め切り日は3月15日。
18日の夜、まだ入っていない三分の二の原稿受け渡しについて、編集者と電話で話をしています。
そして、翌日の午後、出版社のバイク便が受け取りに行ったところ、約束のポストに原稿はなし。電話もつながらない。
20日にマンションまで出向いた編集者は、不在で連絡もとれないことからとうとう休載を決断、その後は差し替え原稿の用意に追われたそうです。
(この回には、3年前の吐血と入院の際の顛末、それにつながる自身の死生観のようなものを書きたいとのことだったそうで、間に合わず本当に残念です)
やはり18日の夜、京都精華大学表現研究機構の方と電話で話しています。
『表現』に「捕鼠(ほそ)」の題で副島種臣について連載を始めたばかりで、二回目の締め切りの日が過ぎていました。
編集者がマンションに出向き、いつも開いているドアから声をかけても応答なし。7階の外階段に座って隅田川を眺めながら帰りを待ち、本の洞窟と化した室内にも入ってみたとか。
しかし不審なところもなく、つっかけもないので外出だろう……と思ったそうです。
電話をかけても出るとは限らず、編集部の決めた締め切りを守る人でもない草森さんですから、締め切りのころはいつも追いつ追われつ。
しかしこの時はさすがに編集者たちも異常を感じ、28日の金曜日、夜8時、文藝春秋、芸術新聞社、表現機構の編集者らがそろって、近所のコンビニや喫茶店で聞き込みを始め、行き倒れた人、運ばれた人はなかったか尋ねたと言います。
そしてお寿司屋さんで相談の上、交代で見張り番をやろうと決め、29日(土)の担当になった芸術新聞社のお二人が草森さんを発見したのでした。
大きな懐中電灯のおかげで。
「ね、俺の言った通りだろ。フフフ(笑)」 草森さんの声が聞こえますね。
1981年の春。四国の六十八番礼所神恵院で。