その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

評論家の阿部嘉昭氏から、「本は崩れず」写真展について寄稿がありました!

阿部嘉昭氏と言えば、草森さんが亡くなった直後の印象深いブログ「草森紳一さんが亡くなった」を思い出します。
今回、蔵書整理プロジェクトに参加する編集者・中村健太郎さんの協力のもと、写真展評をいただくことができましたので、一挙掲載させていただきます。

       


●歩くひと、穴のひと
阿部嘉昭

八月十日、歌手の三村京子さんと、
茅場町森岡書店(レトロなビルディングの一室)で開催された
「本は崩れず 草森紳一写真展」へ行った。

自分の影、路上で寝る人、壁の落書き、
落ちている手袋、廃墟化した放置自転車、
水上浮遊物、型示しの雲など、
草森さんが生前、
テーマ別に撮ったまま箱に入れられていた写真を、
手袋をつけた来場者が
自由に引き出して鑑賞できる、という贅沢な試みだ。

もう少し立ち位置や腰の高さをかえれば
構図も引き締まるところ、
すべては出会い頭の発見により、「逸って」撮られていて、
撮影者としては正直、凡手なのだが、
散歩する本人の身体性が無防備にもつたわってきて、
草森さん、カワイイという印象がどうしても出てくる。

草森さんが興味をひらくのは終始、
路上、偶然にできているディペイズマン(取り合わせの妙)、
それの奏でる奥深いナンセンスにたいしてだろう。

草森さんは筋金入りの文献派だが、
「美術」にしても何にしてもハイアート好みではなく、
サブカルチャー的なものにシフトしている。
江戸的デザインやマンガへの興味、
あるいは文化大革命時の中国プロパガンダへの博捜にしても
すべて根はおなじだとおもう。

現行、刊行されている草森さんの写真論の本には
『写真のど真ん中』という名著があるが、
数々の未刊の写真家論を差し置いてそこに掲載されているのも、
だから心霊写真や自動撮影装置による写真などについての論考だ。
つまり草森さんはハイアート写真の範疇から外れる
撮影行為のいかがわしさや非人称性が前面化したものを
「写真のど真ん中」と規定している傾きがある。
それを自らの写真行為にも適用している、ということだろう。

もう一面でいうなら草森さんの写真は、
漢詩でいうところの「偶成」だ。
それで散歩が軸になる。
このたぐいの「散歩+写真」論の本には
『随筆「散歩で三歩」』『コンパクトカメラの大冒険』があり、
そこですでに先刻、ぼくが言及した
「自分の影」から「型示しの雲」など
出会い頭に撮る写真の主題がしめされていて、
これらの本の刊行後も同様の対象への興味がつづいていたことを
「本は崩れず 草森紳一写真展」は物語ってもいた。

むろんそのほかにも草森さんの本には
散歩体験の結実したものが数多い。
児童公園の寂寥をルポルタージュした
(それでペドフィリアの嫌疑もかけられる)
『子供の場所』が嚆矢だろうか。
断腸亭日乗』の裏目を読みまくって
永井荷風の精神の変遷を見事に浮き彫りにした『荷風永代橋』でさえ
草森さん自らが住んでいた永代橋近辺の散策記の一面をもっていた
(だから写真展にも永代橋写真の箱があった)。

古地図の収集家でもあった草森さんにとって
散歩は現在と過去、さらには未来にわたる「時間の複層」へ
じかに身体を触れさせる知の営みだっただろう
(とはいえ、江戸情緒のきえた「東京」への
荷風『日和下駄』的な悲憤慷慨は草森さんには無縁だ)。

ぼくは一度だけ、本を詰め込んだ紙袋を両手に提げて
長い脚の大股で颯爽とあるく
ブーツ&ジーンズ姿の生前の草森さん(むろん仙人フェイス)を
珍しくも神田古書店街で見かけ、緊張したことがある。

この歩くのが速いことが、草森さんの散歩写真を規定している。
「出会い頭」の印象がまずあって
しかも撮影機会が異様に多い、と見受けられるのもそのためなのだろう。

草森さん自身はむろん写真解読の名手で、
以前ぼくは、『衣裳垂れて天下治まる』中「地球の起死回生」で
草森さんが論じた中支戦線で捕虜になった中国人女性の分析を
アジア女性のたたずまいの根幹をしめすものとして
援用したことがある
(「「顔」の基準」――『日本映画が存在する』30−31頁)。

「はれぼったい一重瞼の目の涼しさ」、
背後にしている日本人兵士を
「背中とお尻で見ている」といった草森さんの分析は
アジア女性的なエロスが一筋縄ではゆかないことを見事に語っていた。
言及に値する写真一枚あれば、
原稿を何枚でも書けるという「草森伝説」は本当だろう。

そういえば「草森伝説」には草森さんの記憶力についてのものも多い。
何か、文も絵柄も「見た光景」として
草森さんの身体奥深くに転写されて、
原稿執筆時には取り出し自由なのではなかったか。

ゆかりのひとの回想を集めた『草森紳一が、いた。』には
興味深いエピソードが載っていた。
草森さんの左右の眼が別々になって
それぞれ焦点の合っていないときがあったというのだ。
それまで読んでいた資料を左頁、右頁別々で記憶していて、
その名残が左右の眼にのこったまま
編集者との打ち合わせに臨んでいた、という。
なんとも可笑しい逸話だ。

この意味で当然、草森さんの散歩写真は彼の「記憶」の痕跡で、
それが現像されて眼前にあれば
原稿執筆のための賦活剤ともなっただろう。

そもそも草森さんにとって「記憶」は
彼個人のものといいがたい面がある。
「記憶」がそれ自体を「記憶」している運動に
草森さんが融通無碍に参入する趣があるといったらいい。
資料に没入しつつ物を書く草森さんの運動がまさにそれで、
「記憶」の非人称性を体感していたにちがいない草森さんには
写真撮影の非人称性もとりわけ重要だったということになる。

そういえば最近、ぼくは草森さんの『勝海舟の真実』と
『絶対の宣伝2・宣伝的人間の研究 ヒットラー』を読んだが、
草森的思考というのが文学研究的ではないのもこの点にかかわるとおもう。

人間は「文の人となり」である以前に、
宣伝やデザインをおこなう、という冷徹な認識が
草森さんにはまずあって、
それで『勝海舟の真実』であれば『氷川清話』もそこそこに、
書簡、書から海舟の「生のデザイン」「かたち」を捉えてゆく。
対西郷で始まった本が対山岡鉄舟で終わり、
福澤や龍馬がほぼ等閑視されるのは
それが草森流の「デザイン」だからだ。
そうして海舟の「磊落の危うさ」が
歴史文脈の厚さと照応して浮かびあがる。

むろん草森さんの凄さは資料の博捜と
長大さに向けたノンシャランな展開にあるが、
裏目」の読み方への執念と、
論及対象の「生のデザイン」への肉薄も独壇場だ。

「生のデザイン」ということなら、
『争名の賦』や『あの猿を見よ』の「自己宣伝」「佯狂」、
裏目の開陳なら『中国文化大革命の大宣伝』での壁新聞、
荷風永代橋』での『断腸亭日乗』の扱い、などがあって、
それで『江戸のデザイン』や『円の冒険』『「穴」を探る』などでの
デザインや「かたち」への博捜的考究が来る。

これらのありかたが「文学研究的」ではないというゆえんだが、
叙述の裏をとって、かたちに迫る、というのは、
李賀でも司馬遷でもその真の読解に必要な方法であって、
じつは「中国文学研究的」ではあるのだった。

『宣伝的人間の研究 ヒットラー』でも
草森さんはこの流儀を貫いていて、
「宣伝」が人間の本質的な行動だと告げつづける。

いずれにせよ、文学研究に「個人性」の烙印が捺されるのにたいし
草森さんは資料に非人称的な「媒介」をおこない、
「資料に資料をかたらせる」ような自動展開をうながす。

ここから敷衍すると、草森さんの撮る写真も
すべて出会い頭の「自動展開」でよいわけだった。
文学的人間の固陋をきらう草森さんは、
風景が自らを偶然に「デザイン」し、
そこからさらなるデザインを施される人間なら好む。
この人間観には中国古典からの素養が脈打っているはずだ。
むろん江戸でも中国でも
「作家」には個人神話の危うさがつきまとっている。

「本は崩れず 草森紳一写真展」に話をもどそう。
二時間、箱内の袋から写真をとりだして
写真を次々に眺めていたが
そうして全体の三分の一程度をみたところでさすがに疲れ、
会場をあとにした。

最も印象の鮮明だったのは「穴」にまつわる写真群だった。
草森さんの死後出版された本に、
前述のように『「穴」を探る』という名著があって、
樹の洞、公園遊具のもつ穴の空間、
建物の取り壊しでできた穴、隧道など、
そのための資料写真が、よくも撮ったりとおもうまで集められていた。
なかには女性器の略式落書き、
さらには「穴」吹工務店の社屋写真もあって、
草森さんのユーモアに大笑い。
この一連のみ、厳選すれば写真集ができるなとはおもった。
贔屓目でいえば民俗学者宮本常一の写真とも比肩しうる。

『「穴」を探る』は「人穴」から始まって
神木の洞、さらには荘子論などへと縦横無尽に筆先が伸びてゆく
草森型図形論=博覧強記型の快著で、
往年の『円の冒険』と地続きの記述にあふれかえっている。

眼口から膣まで「穴」をもつ人間の宿業。
隧道の出口などは一見、閉塞の解決ともみえる。
ところがたとえば沼でさえ水におおわれているとはいえ
それは「穴」の正体を隠匿するものにすぎない。
空だってそうだ――と捉えれば、世上は「穴」にみちあふれている。

「穴」と「円」はむろん図像的な共通性がある。
車座などはコミュニケーションの円滑をしめしているようにもみえるが
真円は禅機的には「無」で、
掛軸の「○」は人間的認識の最終を表す。

小円はドット模様として散らされれば可愛さを演出するが、
円は充実にして、最終なのだという
草森さんの透徹した意識は変わらない。
そういえば草森さんの散歩写真のテーマ「路上で居眠るひと」も
周囲の外界を超越して、
孤絶的に「全円」になってしまったひとの謂だろう。
人間は眠れば一瞬にして愛おしい「無」に変貌する。
草森さんの認識の二元性を刺激してやまないのが
「円」と「穴」なのだということができる。

「自分の影」だって、自分の身体の物量性が
地面や塀に投影されてできた穴に似た何かにすぎず、
それこそが、「ひと」が個別性を剥奪された仮象だとあかす。

もともとカメラのレンズは円形だし、
写真行為とは、穴であるカメラに
風景をとりいれて、それを生体のまま殺すことだともいえる。

「写真展」のひとつの箱にあった「穴」テーマの写真は
数年で撮られ、あつめられたものだった。
ぼくが感じたのは草森さんの地上への博捜が
この多様な写真を撮らせたのではない、ということだった。

「穴」がまず草森さんを呼び寄せ、
それで草森さんは自動的にシャッターを切った。
もっというと、草森さんは「穴をみつけた」のではなく、
地上のここかしこで「穴が草森さんをみつけた」のではないか。
その奇妙さが、この一群の写真に、神秘的表情をあたえていた。
この意味でこそ草森さんは非人称的な撮影者なのだった。

「写真展」には余禄もあった。
草森さん「が」撮った写真以外に、
草森さんや草森さんの空間「を」撮った写真もあったのだった。

たとえばひとつのファイルには、
部屋中ところ狭しと針葉樹林のように天上に向かう、
草森空間のなかの書物の平積み塔、
その書名が判別できるよう
多様な視点から接写した写真群が収められていた。
草森さんはいましめしたように「穴のひと」だが、
それは書物の平積み塔の「谷」「穴」に住んでいたからでもあった。

むろん判明する書物も気になる。
たとえば草森さんは中国古典や雑学書以外に、
大室幹雄平岡正明『中国人は日本で何をしたか』などを
やはり読んでいたのだな、といった嬉しい発見もできた。

そのファイルをみていた三村京子が叫ぶ。
「あ、先生の本がある!」。
みてみるとたしかに
ぼくの『精解サブカルチャー講義』が本の塔のなかに、
半分隠れるように紛れこんでいた。
草森さんの写真行為を、一章をもうけて扱った、
『実戦サブカルチャー講義』ではなく、
おなじシリーズの前の本があったのにびっくりしたのだった。

プロの写真家や素人による
草森さんのポルトレも箱の幾つかには大切に蔵われていて、
それらをみると若き日の草森さんは
神経質で意志薄弱そうでモヤッとしたところもあるが、
老年期に突入すると
文人」「仙人」の風格がさすがに滲みでてくる。

細長い顔だが、頭脳の容量をしめす、
額の異様な発達に畏敬の念をおぼえずにはいられない。

老年期の衣服は植草甚一ほどでないにしても、
カラフルでおしゃれだ。
ミッソーニっぽい服を好んで着ていると感じたら
草森紳一が、いた。』には
ミッソーニがお気に入りのブランドだった、という証言もあった。

友人関係では80年代の写真に、藤田敏八氏がやたら写っていた。
岸田今日子さんはやはり綺麗だった。

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人