その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

草森さん、もう一つの行方不明事件

草森紳一が自宅のマンションで亡くなっているのが発見された経緯を3月18日と
4月4日付のブログで書いたあと、その数年前の、もう一つの行方不明事件を思い出した。

2005年の暑い暑い夏のことだった。

私はこの頃、東京と関西の行ったり来たりが多く、数週間不在になることもあった。
夜中にフト目を覚まし、「ここはどこ? 東京のマンション? 病院? 事務所の床の
上?」と、自分の居場所さえわからなくなるほど忙殺された日々の、帰京した翌日。
事務所に向かっているとき、携帯がなった。
旧知の編集者Nさんからの第一声は、「あなた、今、どこ?」。
「草森さんがつかまらないのよ。マンションの鍵もかかっているし。あなた、鍵持ってる?」
「持ってない。どこかに遠出なんじゃあない?」
「受話器が外れているのよ。ここ数日、電話してるんだけど。草森さん、吐血したじゃあない。
この間、東京では地震があったし」と、彼女はたたみかける。
とにかく行ってみるわ、と約束して久々に門前仲町に出かけた。
たしかに鍵がかかっている。鍵などかけないのが草森さんの流儀なのだ。遠出に違いない。
マンションの管理人さんに聞くと、数日前にタクシーに乗り込むのを見かけたけれど、
その後は、先生を見ていないと言う。
翌日、電話をかけてみる。翌々日も。深夜1時半にもかけてみる。
受話器は依然としてはずれたままだ。
Nさんは、原稿のことで連絡しなければならないし、絶対おかしい、
室内を調べたほうがいいのではないかと言う。
次第に不安になった私は、マンションの前で彼女と会う約束をした。
まずは鍵を開けてくれるところを探さなくてはならない。当時はネット検索もまだ充実していなかった。
やっと鍵屋さんを見つけたが、本人の承諾がなければ警察官の立ち会いが必要と言われる。
ぐっと考え込んで、あきらめる。

「鍵もなくてどうしよう…」と思いながら、翌日、門前仲町で地下鉄を降りた。
携帯がなってNさんから「管理人さんは4時までだって。早く来て」。
永代橋方向に向かうタクシーに飛び乗る。車だと5分もかからないのに、歩道橋のところで赤信号。
「あ〜ぁ」、ふと左手を見ると、そこは鍵屋ではないか。
運転手さんに待ってもらってお店に飛び込んだ。
「この先のマンションなんです。連絡が取れないのでみんなが心配してるんです。名前は草森紳一
来てもらえないでしょうか」
主人は、「あ〜、草森さんね。鍵落としたって言って、うちの若いのが開けに行ったことがあったな。
…とにかく暑いからねえ、鍵を開けなくてもわかるよ」。
ドキッとすることを言われる。とにかくここは頼み込むしかない。
「で、あんた、だれ?」
「別れた女房です」思わず言ってしまった。私たちの関係を説明するのはとにかく面倒だ。

管理人さんと編集者のNさんはじりじりしながら待っていた。
鍵屋の若いのもやってきて、3人はドアの前で沈黙したままじっと彼の手元を見つめる。
ドアが開いたとき、一瞬、みな息をのんだ。
本の山、山、山。奥の部屋に続く暗く長い廊下はやっと人一人通れるせまさで、
両方の壁は天井にまで高く積み上げられた本の壁になっていて、いまにも倒れてきそうだった。
「私、ここで待ってるわ」
Nさんがそう言って、私は1人でそろそろと本の洞窟に入って行った。

1990年の半ば頃から本が増えて仕方がない、困ったと言う言葉は聞いていた。
私にもどうにもしようがなかったのだが、こんな状態になっていたとはショックだった。
細心の注意を払いながら静かに奥に進む。厚手の本が滑り落ちてくれば、確実に怪我をする。
台所には大きな本のピラミッドが出来ていて、足の踏み場もない。地震のせいもあるのだろう。
貯金箱代わりにしていたピース缶のふたが開いて、10円玉がこぼれている。
右手には寝床があるはずだがここも本、本、本。
引っ越してきた1983年当時は何もかもがすっきりと整理されていた。
本は本棚に、蝶の標本を飾った緑色の大きな額は棚の上に、台所には最低限のお茶の道具。
無駄なものが一切なく、生活感あふれる自分の住いを恥ずかしく思ったほどなのに。
本のピラミッドを乗り越え、奥の書斎に入る。ここにもいない。黒電話のはずれた受話器をなおす。
「大丈夫〜〜?」と遠く入口から声が聞こえる。
「大〜丈夫。いな〜い」と応える。あ、そうだ、お風呂場とトイレがまだだった。トイレにはいない。
緊張は頂点に達し、そっとお風呂場の戸を開けた。そこに本はなく、壁も鏡も白々として清潔だった。
お風呂には水が張ってあり、洗ったシャツが広げてあった。

一体どこに行ったのだろう……

数日後、管理人さんから電話があった。
「先生、ぴんぴんして帰ってきましたよ。女性は中に入ったのかと聞かれたから、
鍵屋の若いもんが調べたようですって言っときました」。
深夜、早速電話をする。文春の仕事でかんづめになっていたという。
(この2ヵ月半後、文春新書『本が崩れる』が出版されている)
「世間一般論で言うと、二人には心配かけたからありがとうございますと言わなければならないところ
だけれどね。心配とは、その人にはなれないということ、エゴなんだよ。
本を踏んで中に入るということは、俺の顔を踏んで行くのと同じことよ」
「だって、中に入れないでしょう。危なくて大変だったわ」と言った途端、あ、しまったと思った。
案の定、草森さんは「入ったな!」ときつい言葉を返した。
「俺の本を踏みしだいて、死体発見の旅に出かけた!」
私は一瞬、電話線のこちら側で「〜〜フミシダイテ、シタイハッケンノタビニデカケタ」とメモをとる。
良い表現だ。それから話は、18部屋もある家に住んでいた中原淳一葦原邦子の話に移り、
2時間か3時間が経過。とにかく、眠ることもできないあの部屋はなんとかしないとと話して電話を切った。

あの部屋の惨状が頭から去らず、一部の本だけでも移動させねばと、門前仲町の不動産屋をかたっぱしから
当たってみた。8月の6日頃だった。カンカン照りの太陽の下を汗を流しながら歩いたことをよく憶えている。
2010年の夏とどちらが暑かっただろう。本当に2005年の夏も暑かった。

それから、カフェ東亜で草森さんと会った。
久しぶりに顔を見て、これはいけない、本当になんとかしなければと思った。
テーブルにパンフレットを出す。
一般的にトランクルームは高い。永代橋のすぐそばにある山種の倉庫でも預かってくれること、
カルチャージャパンという書籍・文書の保管会社では電話1本で預かり、取り寄せが可能だということ、
倉庫がいやなら現在のマンションから歩いて3分のところに安い1Kの部屋や、門仲の駅から1分のところには、
床の間のある10畳ほどの部屋もあること。この部屋は古いけれど畳だからホッとできる。
お金もかかるけれど、3万円までなら出せるとも話した。
草森さんの返事は、ことごとく「ノ―」。
我ながら、滑稽なマンガのような日々だと思う。歩く空間もないから、体を壊すことになってるだろう。
蔵書愛はない。資料としての本で、俺の仕事の仕方だから……普通の人にはできないバカなやり方だけど、
生き方とつながってるから困るんだ。1日1冊100年生きても、たった3万冊しか読めない。
部屋に在ることで書くエネルギーを与えてくれている。北海道の任梟蘆の本も在ることだけで意味があって
生命力を与えてくれている。
名案を出してくれたけれど、俺も考えてきたことだから。
だけど、永代橋のこのマンションにいるのもあと2年と思っている。
マンションの眼の前に、高層ビルが建築中で隅田川の景色も変わる。そうなれば、ここにはもういたくない。
資料に頼る仕事の方法も変えて、本も処分して、小田原あたりに引っ越したいと思っている。

いつものように私は沈黙した。草森さんと、時の流れに任せるしかないのだろう。

それから数カ月後、新宿で大学時代の親友と会った。1年に一度、会えるかどうかという間柄だけれど、
長い長い年月、お互いの苦しみも喜びも話し合ってきた。
この日もおしゃべりが止まらず、あっという間に時間が過ぎ、喫茶店から駅に向かう。
新宿駅西口の改札は、そろそろ夕方のラッシュが始まりそうだった。
話題は、草森さん行方不明事件の顛末になっていた。
「ねえ、編集のNさんが言うのよ。あなた、瓦礫の山をよじ登る救助犬のようだったわよ!って」。
夢中になって話しながら、二人は笑いをこらえるのに懸命だった。
人混みのなかで立ち尽くし、見つめあった眼からぽろぽろ涙を流しながら。

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人