その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

本の住む家

 人の住む家というより本の住む家と呼びたい家を、少なくとも二軒は知っている。ささやかな経験からだけれど。

東京・大塚の春山行夫氏の家、経堂の植草甚一氏のマンション

 一軒は、春山行夫氏の家。氏は詩人、名編集長、そして文化史、博物学の書き手として知られている。
 お宅を訪問したのは1976年だった。山手線の大塚駅から10分ほどのところ。暑い日で、緩やかな坂道をフウフウ言いながら登ったことを今、思い出した。
 木造の古い家だった。平屋だったか、2階建てだったかの記憶はない。いたるところ本だらけ。小さな庭に面した長い廊下には、海外の雑誌の山がいくつも並んでいた。廊下の奥の部屋は書庫として使っていらした。板の間だったと思う。暗くひんやりした空気。蔵書の棚がいっぱいで、カビた臭いとともに巨大な怪物がじっと潜んでいるような気がした。
 春山先生は小さな手書きのカードを見せて、「こんな風にやってるけれど、追いつかないですね。後を継いでくれる人もいないし。…床がもう沈んできてるんですよ」とため息まじりにおっしゃった。
 洋書がとても多かったが、新米の編集者には、どんな本があるのか、どのくらいあるのか、見せていただくだけの知識も心の余裕もなく、ただ茫然と眺めるばかりだった。先生は70代半ばだったと思う。
 90歳過ぎまで長生きなさったが、お訪ねしてからの20年間、蔵書の整理は順調に進んだのだろうか。木造家屋に書物がとても似合っていた。風通しも良かった。

 植草甚一さんのお宅も知っているけれど、マンションの部屋を借り増しして書庫にしていらした。本の家というより、倉庫の印象だった。
 春山先生の訃報後しばらくして、蔵書の一部が資生堂で保存されるということを新聞で読み、ホッとした。

草森紳一芝公園のビル→門前仲町のマンション

 もう一軒は、もちろん草森紳一のマンションである。1967年に芝公園の、完成したばかりの石原ビルに引っ越している。増え続ける本のために、当時としてはまだ少なかった鉄筋のアパートに住むことにしたのだろう。
 しかし、どんどん本は増え続ける。1975年、青山のフロム・ファーストビルの建築で大きな注目を集めていた山下和正氏に書庫の設計を依頼する。北海道に完成した書庫「任梟蘆」に何万冊かを移したのが1977年。それから6年経った1983年、永代橋のマンションに引っ越して、亡くなるまで25年間住んだ。
 仕事の終わったマンガやナチス関連などは随時書庫に送られたので、80年代の終わりごろには北海道の書庫は3万冊ほどの本で、すでに飽和状態。以後は、どうしよう、どうしようと言いつつ、なすすべなく締め切りに追われ、しかも整理に人の手を借りようとはしなかったため、本たちはマンションの中で増え続けていったわけだ。
 永代橋に引っ越したときの室内の様子を憶えている。入口から続く長い廊下の奥に2部屋ある、日当たりの悪い2DK。壁面はすべて本棚で占められ、棚の間に本を引き立たせるように蝶の標本が飾られていた。整理整頓が見事にされていて、自分の住いをかえりみて、恥ずかしかったほどだ。

 亡くなった後に見た部屋は、本という樹木が四方八方に枝を伸ばし、からみあい、地をはい、天井を打ち、本のジャングルと化していた。
 90年代ごろから、人は皆床が抜けると心配したが、草森さんは「このマンションが建つとき、隅田川のそばで地盤が弱いから住民たちが反対運動を起こした。だから、他のマンションよりずっとしっかり基礎工事ができてるんだ」と言っていた。マンションが建った翌年には入居しているので、永代橋のそばに住みたいと願っていたとしても、増殖し続ける本たちをまず第一にと選んだマンションであったのだろう。

 3トントラック2台で本たちをすべて引っ越しさせた後、遺族3人で部屋を磨き上げた。建てつけも異常なく、敷金がほぼ戻ってきたのにはバンザイ!だった。
 草森さんの「本の家」選びは正解だったのだ。かなり、本たちには窮屈だったとしても。



追記●「引っ越しトラックについて」 WEB「マガジン航」の取材を頂いたので確認しました。2008年6月11日マンションから半分の本(約2万冊)を倉庫に移動させた時、2トン車のショートとロングの2台だったということだけは引っ越し業者のデータに残っています。このとき、本を段ボール箱に詰める作業に時間がかかり、11、12日の二日間を要しました。残りの半分を引っ越しさせたのは7月8日で、2トン車だったか3トン車だったか、データになく私の記憶もはっきりしませんが、このときは本箱、大型の蝶の標本、衣類などグッズ類 も運搬したので3トントラック2台だったのでしょう。(2012.9.11)

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人