蔵書先はどうなる?
私自身も寄贈先について動いていなかったわけではありません。
心配をしてアドバイスをくださる草森さんの友人や編集者の方のご紹介で、大学、文学館、企業などに足を運びました。
最初は一括寄贈を希望、そのうち、貴重なテーマだけでも(永代橋と荷風、文化大革命や、李賀関連など)、いや、やはり一括でと、遺族の気持ちも揺れ動いていました。
鶴本プロデューサーの展覧会と寄贈の構想も、楽しみにしていたのですが・・・
「草森紳一蔵書整理プロジェクト」が暗礁に乗り上げたとき、
チラシ配布のアイデアを出して、印刷もして下さったのが清水ますみさんです。
矢崎泰久さんや中山千夏さんたちのお仲間の一人で、整理の最後の頃に知り合いました。「草森さんのために、なにかしたい!」と思われたに違いありません。
出来上がったチラシ(色はグレーに変更)は、書店や喫茶店などに配布しましたが、清水さんのご近所の往来堂書店(東京・千駄木)に置かれたチラシを偶然手に取ったのが、北海道新聞社のI記者でした。
すぐに取材のご依頼をいただき、その記事が北海道新聞で掲載されて、事態は大きく動き始めるのです。
(左は、第一報の6月18日付北海道新聞、右は9月1日付十勝毎日新聞)
北海道音更(おとふけ)に飛ぶ
草森紳一の故郷、音更(おとふけ)町にある帯広大谷短期大学が関心をもってくださったのを知って、少しでも実物の本や資料を見ていただこうと仲間3人(整理の中心・円満字二郎さんと中森拓也さん、私)で帯広に飛んだのは、2009年7月、大学が夏季休暇に入る直前だったか、直後だったか・・・
音更町希望ヶ丘の、果てしなく広がる小麦畑の中に立つ帯広大谷短大で、中川皓三郎学長、田中厚一教授、永井事務局長にお目にかかり、和やかな歓談に、会食まで用意して下さった日のことをありがたく思い出します。
翌日は、帯広市内から十勝大橋をバスで渡って草森さんのご実家の庭に立つ書庫「任梟盧」(にんきょうろ)へ。もし寄贈の話が流れれば、お二人が任梟盧を訪れる機会は2度とないだろうと思ったからです。
円満字さんと中森さんが、草森家の客間に入って来られたとき、ソファの英二さんが思わず背筋を伸ばし「おー、すがすがしい人たちだ!」と言われたシーンは忘れることができません。
(緑の樹々の中に立つ高さ9メートルの書庫「任梟盧」。左から中森さん、英二さん、円満字さん)
任梟盧を見学の後は、帯広市図書館へ立ち寄って、多くのご助言をいただいた吉田真弓館長にご挨拶。執務室で円満字さんが館長に、「本を開いて一冊一冊に感謝しながら、棺を閉じるような気持ちで奥付の入力をしていました」と話された言葉も憶えています。
一泊2日の音更行は、アッという間に過ぎ、結果がどうなるかは、まだまだ分かりませんでした。
そして2か月後の9月半ば、中川学長、田中教授、永井事務局長が東京に来られ、正式提案をいただきました。「一括寄贈を大学としても希望したいこと、保管場所については音更町と10月末をめどに協議予定であること、大学内に記念室を作りたいこと」等々。
万歳!! 3万冊余りの草森蔵書の行く先がめでたく決定したのでした。
そして2009年11月に3万冊の本たちは海を渡って、北海道音更の廃校に。一年後の2010年11月、帯広大谷短大に「草森紳一記念資料室」がオープン。
本たちの棺は閉じられなかった。
東京から蔵書整理の仲間たち8名も帯広大谷短大に駆けつけ、草森さんの本たちと再会を果たすことができたのでした!
続きは、ブログ「崩れた本の山の中から」〈蔵書をいったいどうするか 番外編5〉で。 https://kusamori-lib.hatenadiary.org/entry/20101211/1292020239
◎「崩れた本の山の中から」https://kusamori-lib.hatenadiary.org/は、草森蔵書の山の中から見つかった貴重な本、おもしろい本、好きな本をご紹介するブログです。
寄贈当時のことをリアルタイムで〈蔵書をいったいどうするか〉にもまとめています。
今年は、昨年以上の自然災害にコロナ禍に、信じがたい政府対応の数々。
蔵書整理は、ほんの10年前のことなのに、懐かしい。
みんなで心を合わせて頑張れば報われた時代。
変わりませんように!
(とても悲しいお知らせです。
草森紳一の弟、草森英二氏は、蔵書整理のボランティアの一人として協力され、ま た「任梟盧」の番人(及川氏の言葉)でもありましたが、2019年12月4日に逝去されました。8月にお見舞いに伺い、楽しくお話しさせていただいたのに本当に残念です。
また蔵書寄贈当時の音更町長、寺山憲二氏も2018年2月に逝去されていたことを知り、驚きました。草森紳一のことについては大変ご尽力いただきました。
お二人に感謝し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。)