その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

エッ、パルコがイオンに?! (続き)

 時は流れ、人も時代も変化していく。
 思い出は結晶化し、美化されていく。
 当然なことだけれど、しかし、と思う。
 昨夜、パルコのことを書いたあとで「昔の夢を見てはいけない」と反省したけれど、企業は人なり、国家も人なり、と思う私は、今なおパルコのDNAに期待していたい。

左は、1977年のキャンペーンポスター(AD 石岡瑛子、デザイン 成瀬始子・乾京子、写真 藤原新也、コピー 長沢岳夫)。
インドから帰国したばかりの藤原新也さんにぜひにという石岡瑛子さんの希望があって、実現したことを思い出す。

 パルコの総帥だった増田通二氏がリタイアなさった80年代の終わりだったか、独立していた私のところに何度かお電話をいただいた。本を作りたいということだった。
 増田氏自らが、パルコを語る。落語の志ん生そっくりのべらんめいで、クリエーターたちを鼓舞し、震撼させ、虜にした増田氏だ。これはオモシロイ! 出色の街づくり論、ファッション論、劇場論、広告論、プロデューサー論etc,etcになるはずだった。
 しかし、この企画は実現しなかった。増田氏自身がパルコを語ることにためらいがあったし、当時のパルコの経営陣が、増田氏の作品ともいえるCMやポスターなどの掲載協力にきわめて神経質だったからだ。(05年に『開幕ベルは鳴った』という自伝的な本が東京新聞出版局から出ている)
 企業は人なり。トップが変われば、企業カラーも変質していくのはやむを得ない。しかし、いつだって、創業の精神にたちかえることは、とても大切ではないかと思う。
 堤清二氏が渋谷パルコに劇場を作るという大英断をして、パルコを任された増田通二氏は大いに遊んだ。そして街は活性化していった。西武劇場(現パルコ劇場)の当時の演目に批判もあるのだけれど、土方巽暗黒舞踏もやればイッセイのショウもやる、演劇もダンスも映画もロックもという劇場は他になかったから、本当に刺激的だった。パルコ出版では、大型の『PARCO VIEW SERIES』もあれば、『ビックリハウス』もあった。

 フト思う。アイデアにあふれた当時のCMやポスターなどパルコ・クリエーションを一堂に集めた大イベントを新生パルコは考えてくれないだろうか。
 東日本大震災に対しても、強烈な個性と気配りの心をもったリーダー増田通二氏がいたなら、突拍子もない元気になる協力を考えたはずだ。

(こんなときに、災害になんの関係もないパルコの思い出をつづって申し訳ありません。
今回は、草森紳一のあれこれから脱線。ただ、3年前に草森さんが亡くなったとき、
「パルコを書ける人がとうとういなくなってしまった…」と元パルコ幹部が嘆いていたことをつけ加えておきたい)

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人