その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

三國連太郎とじんましん

物書きは、とくに草森さんは不摂生だから仕方がないけれど、ひどいじんましんに悩まされていることがよくあった。
顔もボロボロにあかくなって、痛々しかった。
ご本人が言われるには、「三國さんの映画のとき以来」ということだった。

70年代の初め、三國さんに親鸞の映画の脚本を依頼されたのだった。
仕事場用にマンションの一室が用意され、必要な本も自由に買うことが出来たし、取材旅行にも行った。
どのくらいの期間、三國さんは待たれたのだろう。
就職試験に東映などを受けて映画を作りたかった草森さんにとって、
大俳優からの抜てきは光栄だったと思うのだが、脚本は遅々として進まず、じんましんが体中に広がって行ったのだという。
結局、この仕事を下りることになり、三國さんはご自身の脚本、監督・主演で「白い道 親鸞」を完成された。

草森さんに近いお二人からお聞きして私自身は見てはいないのだけれど、
映画「釣りバカ日誌」の第一回目だかに秘書のくさもりというのが登場するらしい。
そして、三國連太郎演じる社長のスーさんに散々いじめられるのだそうだ。
「くさもりく〜ん、君ぃ、だめじゃあないか」と。

お〜意地が悪いですねえ、三國さん。
親鸞の脚本に取り掛かったのは、三國さん50歳、草森さん35歳ぐらいか。
草森紳一の遅筆にさぞかしイライラさせられた三國さん、
15年の執念をかけて「白い道」を1987年に完成。「釣りバカ日誌」第1回封切りは1988年。
「草森君、ぼくはやりましたよ」とおっしゃりたかったに違いない。

草森さん自身は映画も会社経営もなんにでも挑戦したいという好奇心があったらしいけれど、
物書き一筋で生きるよう、じんましんに教えられたのではないかと思う。

なぜ、三國さんが草森さんを見込んだのかというと、
『季刊 サブ』5号(1972年12月)掲載の、「三國連太郎頌 無惨の磁場」を読まれたからだった。
三國連太郎の臓腑をえぐる見事なタイトルと文章だ。(『軍艦と草原』九藝出版・1978年刊に所収)

2013年4月14日、三國連太郎、90歳で死去。
1972年の草森紳一の文は現在も色褪せない。まさに「無惨の磁場」を生き抜いた一生でいらしたと思う。

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人