その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

よみうり堂の小さなコラムから

  読売新聞書評欄(3月6日)のよみうり堂のコラムで、『草森紳一が、いた。』を採りあげていただいた。問い合わせ先として電話番号が載っていたためか、当日の日曜日からお電話が。

 「営業してますか?」という、姉御肌の元気な声は群馬県から。草森読者のイメージと重ならず、思わず「古本屋の方ですか?」と聞いてしまう。「いえ、ファンで本をよく求めていたんですけど、最近は古本屋でも見かけないし、あっても高いし。回想集だけど欲しいなと思って」。(ありがとうございます!)

 翌日の、ためらいがちな50代?の男性の声は、「草森さんの本は8割方持ってるんです。大学生のころから、論じる視点が面白いなあと思って。『ナンセンスの練習』とか…『底のない舟』なんていうのもあって…副島種臣は、本にならないんでしょうか」。(ウ〜ン、これは難問)
 火曜日のお昼前には歯切れのよい男性の声。「読売新聞見ました。本は買えますか?」。
応対をしているうちに、「もしかして、○○○○さん?」と私の姓名を言われたのでビックリ! なんと、遠〜〜〜い昔に、原稿依頼で一度だけお目にかかったことがある“あこがれの筆者”でした!! 電話番に私が出て、先方もさぞびっくりなさったことでしょう。(ドキドキ)

 胸をハッと突かれたのは、品の良い年配の女性の声でした。
 「草森さんが慶應時代の家主でしたの。私どもはみんな、草森さんに関心を持っていましてね。ご本が出ると、甥たちが送ってくれるんです。『本が崩れる』も読ませていただきましたけれど、その通りに亡くなられたので本当に悲しい……」。
 電話の向こうで、声を詰まらせていらっしゃるのがよくわかりました。
 草森さんは1967年から、この芝公園の石原ビルに16年も住んだのです。家主の娘さんが学校のグラウンドで突然倒れ、そのまま亡くなられた時のことを、『鳩を喰う少女』(1974年 大和書房)の「ふり返る」という文章に書いています。
 奥様は、「すごい感性の人でした」とおっしゃりながら、また涙。草森さんの死が、中学一年になったばかりの娘さんの死を思い出させたのでしょうか。東北関東大震災が起こる、3、4日前のことでした。
 今、家主さんの嗚咽を思い出すと、悲しみの声の向こうに黒い泥におおわれた東北の海岸が大きく広がります。果てしない数の人たちの魂が鎮まるのは一体いつになるのでしょうか。

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人