その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

私的なことですが・・・

母が亡くなった。
病状を聞いて、自宅に連れて帰るつもりで看護師さんや付添いさんたちとのカンファレンスも終えた翌日から、状態が良くなくなった。90歳なので何があってもおかしくない。
ベッドのそばのソファに泊まり込んで5日目。苦しむことなく安らかに旅立ってしまった。

それからは怒涛の日々! まず親戚、知人たちへのご連絡に、公的な立場もあったので新聞の訃報記事の手配などなど。5日間ほとんど眠っていないのに、葬儀会館との打ち合わせが4時間。フウフウフウ……私自身が倒れるのではないかと皆さんを心配させたけれど、なんとか無事に通夜・葬儀を終えることが出来た。

母らしく軽やかに花々の香る祭壇、3人の方の弔辞がすばらしく心を打つもので、魂のある儀式だったと言って下さる方もあった。
仏式だけれど、地域によってやり方は本当にさまざまで、こんなにも大変なものかと初めて知った。私には隣保や自治会といったバックがない。受付は小学校の同級生6年1組。いつも助けられるかけがえのない級友たち。
四十九日、百か日、初盆とまだまだ儀式は続く。
悲しみに浸る間はないけれど、12年間の遠距離介護と、山々をのぞむ病院の窓越しに夜鳴き鳥の声を聴きながら過ごした母との4日間の夜があるので、悔いはない。


そういえば草森さんが言っていた。「お母さんに、物書きは乞食と同じですって言ったら、商売人も乞食と同じですって言われてしまったよ」。

次々に事業を拡大する父を支えて、商店の経営を切り盛りしたのは母だった。普通のサラリーマンの娘だった母は4人の子供も育てながらどんな思いだったのだろう。46歳で未亡人となり事業を整理、家を建て替えて長男に嫁を迎える。仕事や他の役職を続けながら孫たちにも恵まれ、これからというとき、シロトピア博の初日、婦人クラブの会長として出席するはずの母が来ない、約束に遅れたことはない人なのにと不審に感じた人たちのおかげで、人気のない会社で倒れている母が発見された。
私が東京で知らせを受けたとき、90%ダメと言われた。大きな脳出血。まだ64歳だった。それからほぼ寝たきりの車椅子での生活が26年。その間に息子二人も見送る。お天気の良い時には昔の商店街のあたりを散歩して、知人たちにあいさつするのが何よりの楽しみだった。5年前に軽い脳梗塞から胃ろうになり、去年から自宅での吸引もするようになっていた。晩年は滑舌が難しく、話すことができなくなっていたが、好奇心と感受性は相変わらずで、頭は衰えなかった。付添いさん、訪問看護師さんたちにとてもお世話になったが、みなさん、大好きだからと言ってくださった。90歳と4か月。人生にはいろんなことがあるが、母からグチひとつ聞いたことがない。父に似てまっすぐな一生だった。私は娘ながら逝く母に「東海純子さん、お見事」と言っていた。
お葬式には50年、60年前の従業員が高齢にもかかわらず30人近く来てくださった。改めて母の存在と、貧しかったけれどあの人情豊かな時代を思ったことだった。


あまりの忙しさに、主のいなくなったベッドは物置に
  

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人